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私の読書日記(2) 日本発リバタリアニズム

 

『経済セミナー』20087月号所収後に加筆修正

橋本努


 学部時代に読んで感動した本は、いまでも鮮明に思い出す。経済学周辺の本にかぎっていえば、柄谷行人著『内省と遡行』、今村仁司著『排除の構造』、間宮陽介著『モラルサイエンスとしての経済学』、佐伯啓思著『隠された思考』などの著作に、私は大いに魅せられた。これらの本はいずれも、「自分でも同じように思考してみたい」と思わせるような力をもっており、そしてある意味で、その後の私の人生を決定したともいえる。

 その当時、私はまた、指導教官(鬼塚雄丞先生)の仲介で、間宮陽介先生に直接お会いすることができた。私は懸命になって熟読した『モラルサイエンスとしての経済学』の内容について間宮先生に質問し、自分も「間宮先生のような研究がしたい」というようなことを述べた覚えがある。すると先生は、自分がどれだけ就職に苦労したか、ということを語られ、この分野の厳しさを強調されたのだった。ところが私は、間宮先生のその姿にすっかり魅了されてしまい、自分も先生と同じように歩んでみたい、と思った次第である。私が経済思想を志した理由は、その内容以上に、間宮先生の人格的魅力によるところが大きかった。

 間宮先生はもう一つ、「本はメートル単位で読め」というようなことをおっしゃっていた。何冊読んだか、ではなく、何メートル読んだのか。それが重要であるという。このアドバイスは当時の私を大いに刺激した。なにしろ私は、世界中の本をすべて読みたい、と妄想していたのだから。

 大学院を志した八〇年代の頃、経済思想のトレンドといえば、例えばマルクスの価値形態論を独創的に読みかえるという作業や、あるいは、近代経済学に採り入れられたアイディアの哲学的源泉をたどる、といったものだった。ところが現代では、いずれのテーマも下火になっている。ごくおおざっぱに言って、八〇年代までの経済思想は、資本主義の背後にある実在を哲学的に把握することを目指してきたといえる。ところが冷戦後の経済思想は、現代の資本主義をいかに再編すべきか、という規範理論に導かれている。現在、日本発のオリジナルな経済思想はどこから生まれているのかといえば、その一つに「リバタリアニズム(自由尊重主義)」論があるだろう。

 リバタリアニズムとは、政治的自由と経済的自由のいずれも最大限に実現しようとする思想で、新自由主義の考え方をさらに徹底した「自由のユートピア(桃源郷)」である。二〇年前までは、リバタリアニズムなど「けしからん」の一言で一蹴され、アカデミズムではまったく取り合ってもらえなかった。ところがこの一〇年のあいだに、森村進氏の独創的なリバタリアニズム研究が注目を浴び、この思想はにわかに市民権を得ている。しかも最近になって、注目すべき二つの著作が現われた。橋本祐子著『リバタリアニズムと最小福祉国家』(勁草書房)、および蔵研也著『無政府社会と法の進化』(木鐸社)である。

 日本では郵政民営化や特殊法人改革など、この数年「小さな政府」をめざす構造改革が推し進められているが、しかし構造改革を推進する人たちは、あまり深い思想理念をもっているようにはみえない。批判する側も批判する側で、「市場原理主義」とか「弱者の切り捨て」といった紋切り型の殺し文句で、思考をストップせざるをえないところがある。

構造改革の論議には、思想的な深みがない。だから支持する側も批判する側も、十分な討議を経た熟慮の醸成という「熟議民主主義」の理想には至らないのではないか。これはいわば、思想の放棄ともいえる事態である。しかし構造改革の背後では、現在、リバタリアニズムの理論がたくましく刷新されている。私たちはその成果を検討せずして、経済政策の熟慮ある判断を導くことはできないだろう。こんにちリバタリアニズムの思想が、真剣に討議されるべきゆえんである。

 橋本祐子氏の著作において、なによりも特筆すべきは、その凛としたヴォイスであろう。すぐれた声質と声量に支えられた、清新な文体だ。彼女は強い意志と主張力をもち、現体制に迎合するところがない。そしてどこまでも論理的な探求に裏打ちされた、思想のフロンティア精神を示している。小著ではあるが、近年稀にみる本格的な思想書だ。

 祐子氏は、人間に必要な最小の福祉を提供する福祉国家、すなわち「最小福祉国家」を擁護する。この立場は、一方ではラディカルなリバタリアンを牽制し、他方では平等主義論を批判するという、いわば両面戦争を闘うわけだが、彼女はこれをシャープに展開してみせる。その論理がとても秀逸で、とくにA・ランドやM・ロスバード、あるいはR・ノージックといったリバタリアン思想家たちとの対決は、思想家としての生死を賭けた論理の凄みがある。

 彼女のオリジナルな観点は、福祉への積極的な権利を認める場合に、人々の「怠惰な生き方の『貫徹』」をも、一つの「『立派な』プロジェクト追求」とみなすという、その独自の人間観にあるが、この主張は著者がこれまで、さまざまな討議と思索を経て到達した「一つの説得術的な切り札」であろう。含蓄が深い。

 むろん、私たちが追求する人生のプロジェクトには、立派なものと立派でないものがある。この点にについて考えはじめると、各人が「立派なプロジェクト」を実現するための体制は、必ずしも最小福祉国家ではないかもしれない。祐子氏はこの点を論じてはいないが、リバタリアニズムの立ち位置に対して、一定のディレンマを見据える氏のスタンスは、ヒューマンで清清しい印象を与える。

 これに対して蔵氏の前掲書は、デモーニッシュな本だ。蔵氏もまた、リバタリアニズムを絶対なる理想とみなしているものの、しかし氏は、その理想が帰結する負の側面を直視して読者に提示するという、ダンディズムの魅力をもっている。一般に「庶民的なリバタリアン」といえば、自由化による「抵抗勢力の瓦解」に歓喜するという、ある種の快楽主義者のイメージであろう。しかしその快楽の思考回路を徹底的に正当化しようとすると、今度は何を引きうけることになるのか。蔵氏はその帰結を考え抜く。

 例えばリバタリアンは、警察すらも民営化して、複数の警備会社からなる社会を望ましいとみなすだろう。けれどもその場合、民事損害賠償の問題として、「親が子供を殺した場合に、無罪になるかもしれない」と蔵氏は指摘する。そしてこれが「難問」であると述べ、氏はさらなる思考をめぐらすのである。他にも例えば、死刑を認めるかどうかという「正義」の問題をめぐって、蔵氏はリバタリアンの側から、入札制度に基づく貨幣的解決を提案している。つまり「金持ちが正義を金で買えるシステムにしよう」というわけなのだが、こうした珍問を哲学的にまじめに考え抜くのだ。

 本書を読みすすめていくと、初発に想定されていたはずのリバタリアン的桃源郷は消え失せ、リバタリアンに共鳴していたはずの読者は、どこまでその帰結に絶望せずについていけるのか、という精神の強靭さを試される。ハードボイルドな野性的世界。しかも完全に理知的に擁護された世界。そんな世界を描く蔵氏の前掲書は、他のリバタリアンにはない魅力をもっている。

 橋本祐子氏と蔵研也氏。二人の独創的なリバタリアン思想と対峙する日々だった。